今日は学校の授業との付き合い方について僕の考えをレポートします。
内容は主に大学進学を前提としている一般的な進学校の生徒に目線を合わせています。
とりわけまじめに授業を受けて宿題もしているのに成績が上がらない人だったり、過去の僕と同じように授業にはついていけない人に向けて書きます。
(目次) ・あなたには最適化されていない ・クラスの存在意義 ・無為に課される課題 ・僕が授業に抱いた違和感
・高校時代の確信
あなたには最適化されていない
その授業・宿題・提出物は本当にあなたに必要なんですか?
たしかに学校が組んでくれたカリキュラムにうまく乗って有名大学の現役合格にまでたどり着く生徒はいます。
素晴らしいです。
でも、それって一部の優秀層の話じゃないですか?
僕が現役の頃、そういう同級生に対しては嫉妬をしましたし、同時に自分はそっち側の人間ではないということを知りました。
人によって理解の速さが違えばそのときのやる気も全然違います。
例えば、僕だったら理解は少し遅めで勉強に対するモチベーションは基本的にありません。
クラスには僕よりさらに勉強が苦手な子もいると思うし、逆に天才タイプも稀にいます。
やる気の有る無しもそれこそ、その人その時々によりますよね。
授業ではそんな十人十色の特性があるみんなを一度にまかわないといけません。
そんなことは無理でしょ。
授業という形態はあなたの成績を伸ばす・難関大学に合格させるという目的には最適化されていません。
あなたには照準が向いていないんですよ。
もう一度言います、授業は決してあなたが有名大学に合格するようには設計されていません。
クラスの存在意義
僕は専門家ではないので詳しくは書くことができませんが、
学校教育においてクラスという単位が存在する1番の理由は経済的な合理性でしょうね、次に人間教育でしょうか。
人間教育というと“クラスの”というより“学校の”存在意義と言う方がしっくりきますが。
もちろん校種によってその存在理由に占める要素(elements)の割合のバランスは異なります。
例えば昔聞いた『小学校で遊びの友を、中学で学びの友を、高校で心の友を作る。』というフレーズもそれを表しています。
広い意味での人間関係を学ぶという点においてはどのステージ、小〜大どの段階においても学校が担う役割は大きいです。
だから、僕は「学校(教育)は不用」なんて思っていません。
ただ、大学受験、とりわけ難関大学入試をクリアするためには必ずしも授業の重要度が高くないということ。
更に言えば、人によってそれは障害にしかならないということ。
そして、授業は受けるものだという固定観念を待っている人は早く捨てた方がいいと言いたいです。
本記事のタイトルに“あなたに”と使っているのは、やっぱり「先生の授業のおかけです」という生徒も中にはいるからです。
つまり、その生徒にとっては有益であったとしてもあなたにとってはどうなんですか?と。
冒頭に書いた現役で有名大学へと進学した同級生に対しては学校が作ったカリキュラムがハマっていたけど、僕には合わなかったということと同じです。
念のために言っておくと、大学受験自体の重要性も人によっては違うし、学歴だってそうですよね。
僕の中でも学歴のプライオリティは低いです。
しかしながら、若い人たちが10代で何かに熱中することや一生懸命になって競争することはスポーツに限らず大変有意義なことだし、
やはり上位の大学を出ないと開かない門がたくさんあることも事実です。
この記事の冒頭にも書きましたが、この記事はあくまで(大学進学を前提としている)進学校の生徒を主なターゲットとして書いています。
また、僕自身は可能性のある生徒や夢のある生徒にはやっぱり理系の研究職になってほしいと考えているので、もし学生がそういった目標を達成する意味でも難関大学へ進学する必要があります。
だから、学歴自体には価値はあまりないとしながらも、進学校の生徒ならば旧帝大や一橋・東工、早慶クラスを目指すべきです。
無為に課される課題
そう言った目標を達成する過程で、問題になってくるのは授業だけではありません。
提出物や宿題だってそうです。
その課題は今のあなたにとって本当に必要なもの・相応しいものでしょうか。
難易度や分量は適切ですか?
それらの課題をなんとかやり終えたとして、それを復習する時間的な余裕はありますか?
やりっぱなしの課題・提出してそれでおしまいの課題、それはただの時間の浪費です。
なぜなら大多数の人は課題を一度こなしたからといってその内容を自分のものにはできません。
一度該当の問題に触れておくという点においては意味がありますが、やりっぱなしのメリットはそれくらいです。
人が一度覚えたことを忘れるパターンには再認可能忘却と完全忘却の2通りがあります。
それぞれの単語の意味は漢字が指し示す通りです。
再認可能とは「これ前にやったことがある」と判る(記憶の)ことです。
もし完全忘却してしまえば、その課題に費やされた時間は全くの無駄になります。
一度問題に触れておくのがいいという理屈は再認可能忘却の場合に限ります。
2度目の学習の際に1度目の記憶が有利に働くからです。
僕が授業に抱いた違和感
僕はノートをとるのが嫌いでした。
きっかけは小学4年生のとき。僕の記憶のアルバムに残っています。
国語の授業で板書を写すのがいい加減めんどくさくなって、そのとき開いていたノートのページに鉛筆で大きいサインのようなギザギザの殴り書きをしました。
それから僕はノートをほとんどとらなくなり、その代わりに疑問を抱くようになりました。
ここでいうノートに対する疑問というのは、「授業=板書形式」が当たり前に受け入れられ過ぎていることすることに対する問いかけです。
最初はそんな風な少なくない人数の人が一度は通るであろう、今思い返せば青臭くもあり厨二病っぽさもある
「ちまちまと機械みたいに前に書かれた文字を写す行為」への違和感・学校で当たり前として受け入れられている“常識”に対する疑いでした。
もちろんノートをとることも勉強にはなりますし、先生方の授業運営効率に関わることもわかります。
僕のノートの取り方が下手だったり、単純に忍耐力が足りないということも言えます。
しかしながら、少なくとも当時の僕にとっては疑問でありましたし、それ以降はこのアイデアを皮切りにだんだんと授業に対する疑問・疑惑が膨らみ始めました。
僕の性格上、1度目の違和感をもってしまうと、それから長い期間にわたってことあるごとにその疑問が頭をもたげてきます。
おそらく僕の授業・学業におけるパフォーマンスが高ければ、つまり授業についていくことができて成績もいい優秀層だったならばこんなことは思いつかなかったはずです。
“こんなこと”というのはこの記事の主題である授業の意味への問いかけです。
そうです。 ノートもそうですがそれ以上に学校の授業についていけないことで僕は色々と考えさせられました。
中学の一部の授業から始まり高校では全ての授業進度についていけませんでした。
こっちはある意味で実害があったわけですから、違和感や疑問のような生易しいものではなく、この時点ではもう授業に対する“容疑”です。
高校時代の確信
特に高校の授業には驚きました。
進度が早かったからです。
小学校が徒歩で中学校が自転車なら高校は高速道路を走る自動車という感じです。
結果的に高校の時には学年最下位も一度取ってしまい、挙げ句の果てに親に転校の案内までされたんですが、
そういった経験を経たことによって、
遅ればせながら授業というスタイルは僕には合っていない・勉強は自分でするしかないということを確信しました。
戸惑いがあったのはなにも僕だけではないようでした。
例えば高校2年生の時のあるクラスメートの女の子は落ちこぼれたことをきっかけに不登校になりました。
人って表情や顔つきがそのときの心境を表していることが多分にありますよね。
僕はその子が病んでいることをわかっていました。結局卒業できたのかどうかは知りません。
僕だって当時は部活は忙しく、成績も最悪で余裕はありません。 他人を心配している場合ではありません。
しかしながら、その時のことを思い出すと一言でも声をかけてあげればよかったと常々思います。
これは極端な例かもしれませんが、
授業というのはこと難関大学合格という観点においてはそのような授業的な弱者・もっといえば授業についていける優秀層以外のほとんどの生徒にとって決して効率的とは言えません。
「その人のレベルに応じた学習が大切」だということは多くの人が認めるところだと思いますが、一方で授業は受けて当たり前という風潮があります。
矛盾しています。
授業や授業に対する固定観念によってせっかくの夢や可能性を潰してしまうのはもったいない。
特に難関大学を目指している方はよく考えてみてください。
以上。
僕は真剣にブログ運営をしています。
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あとがき
この記事が当ブログ200本目でした。
ありがとうございました。